シリアにて

「杏奈ちゃん、今度日本に戻ったら、一緒に飲もうね。勿論、2人っきりで」

そう追伸を書いて、添付ファイルを事務所に、いや、杏奈に送ると、雄介は表情を硬く引き締め直した。

此処はシリアだ。最前線。と言っても、ISと政府軍と反政府勢力が複雑に睨み合っているので、何処もかしこも最前線と言って過言ではない。

半年前に、杏奈ちゃんの歓迎会と称して帰国してから、日本には戻っていない。ビザが切れているのかも知れないが、そんな事は全く関係無い場所に、三嶋雄介はいた。

報道ジャーナリストと名乗っているが、雄介はカメラを使わない。写すのは市井の人達だけだ。戦場には向けない。

幾ら現代の液晶画面が背後に全面にあるデジタルカメラでも、ファインダーを覗くと、必ず死角が出来る。それは、隙になる。言わば、スナイパーがスコープを覗いている時、直ぐ横から撃たれても、気付かず、殺されてしまう様に。

つい先日も、親しくしていたドイツ人の女性ジャーナリストが、ファインダーを覗いている最中に撃ち殺された。こめかみを撃ち抜かれていたから、横からだったのだろう。と言う事は、味方からだ。そういう場所だ。誰が敵かなんて分からない。ただ、味方が何処にもいない、それだけだ。

隣にいる通訳もそうだ。国境から付いていてくれているが、早速初日にドライバーとアラビア語で、

「ガソリン代が思った以上にかかったから、3割増しの代金をお前に支払ってくれ、と要求してやる。だから、その内1割を、俺にバックしてくれ」

「そんな事をして大丈夫か」

「まぁ、俺にまかせておけ」

等と、早速交渉をしているので、

「シュクラン(ありがとう)」と、ボソッとアラビア語で言うと、二人は黙りこくった。

元々、三嶋雄介は、岩崎系の商社マンだった。石油担当だったから、ほぼ日常会話と、石油関係の専門用語ならアラビア語は話せる。しかし、今、シリアにいる間は殆どアラビア語を使わない。分からない振りをしている。その方が、現地の人間は、勝手気ままな事を、分からない事をいい事に話をする。肝心要の時だけ、アラビア語を切り出す。

都内の国立大学に在籍していた雄介は、ラグビー部に所属していた。スクラムハーフがポジションだった。ラグビーに明け暮れていた。気付けば、試合にも出られない6年生になっていた。後輩達に助けられ、何とか卒業出来た。

「でかい事がしたいんです!」就職活動はその言葉だけで殆ど押し通せた。結局、商社しか回らなかったが、在籍していた岩崎系の商社と物産に内定を貰った。物産は鉄鉱石を扱う部署だったので、よりでっかいと思われる石油を扱う岩崎系の商社に入社した。

最初は面白かった。ひと月で数億動かす仕事に痺れた。2ヶ月に一度程訪れるアラブ諸国の異国文化も珍しかった。時差のお陰で睡眠時間は3時間程だった。

5年程過ぎた。何か物足りなさを感じ始めた。

タンカーの運行状況を確認し、インボイスを確認し、レーディングを確認して先物に売り買いを入れる。年に6回は行くアラビア半島でも、会うのは王族や政府の高官達だけだ。

スタンプで一杯になったパスポートが虚しく見えた。

一度、アメリカのシェールガスの為、WTIが暴落し、雄介も5億円以上の損を出した。

首を覚悟したが、部長の首が飛んだだけだった。

課長になっても部長がいる。部長になっても役員がいる。役員になっても社長がいて、社長になれたとしても、政府の役人や大臣に頭を下げねばならない。

そんなピラミッドの中にいる事が、そのエスカレーターに、自分が確実に乗っている事が分かるのが、何故だか急に嫌になった。

「でかい事がしたいんです!」

就職活動をしていた時と同じ言葉を、とある小さな報道関係の事務所で所長にぶつけていた。履歴書も持たずに飛び込んだ。

「で、君は何が出来るんだい?」

アラビア語が話せます。大学時代、ラグビーをやっていたので体力には自信があります」

「ふーん、なら、中東の報道関係をやりたい、と?」

「そうですね。そういうのがやってみたいです!」

「と言っても、こんな小さな事務所だ。渡航費用等一切自分持ちだぞ」

「金なら持ってます!」

「後、原稿料の一割をこの事務所に収める事。それでもいいか?」

「一割でいいんですか!」

・・・馬鹿だ。靖男は思った。税金も引かれる、諸費用の負担も自分持ち、それなのに一割抜かれても平気な奴は殆どいない。

だが、実直で信頼できる馬鹿だ。靖男は三嶋雄介を事務所の一員とする事にした。

その日の内に、雄介は会社を辞めた。皆、唖然としていた。石油関係はエリートだ。下手しない限り、部長になり、役員になれなくても関係会社の社長を転々と出来る。それを棒に振って迄何をするのか。

「俺、『ジャーナリスト』になるんっす!」

中東の陽射しは痛い。日本の湿気た暑さでは無く、陽射しが刺す様だ。代わりに日陰は思ったよりも涼しい。そこが日本との違いだ。そして、空気が乾燥しているからだろう、夜は急速に寒くなる。

そして、汗は直ぐに蒸発し、肌はカサカサになる。水分が欲しい。だが、水は貴重だ。

雄介はマスコミ、特に日本のマスコミの連中が嫌いだった。彼らは、一週間程度の旅行気分でやってくる。女性キャスターは、TVの前に立つ前に、たっぷりとシャワーを浴び、化粧をして笑顔を作る。そのシャワーの水だけで、何人の喉を潤せる事か。

また、彼らはハラールを食さず、肉や野菜たっぷりの食事を取る。その野菜は、誰が苦労して、この乾燥した土地で作っているのか、感謝をしているのだろうか。

現地駐在員、と称する男も、殆ど現場に来ないくせに、悠然とランドクルーザーで乗り付け、わざと砂で顔と髪を汚して、神妙な表情をしてTVカメラに収まる。そして、直ぐに帰っていく。それも、現場の最前線、雄介達がいる場所より数km離れた、何も起こっていない場所でだ。それを日本の視聴者達は、「現場」と感じているのだろうか。

雄介は、自分の書いた文章が記事になっているのかは知らない。半年前に帰った時にも、事務所の連中と飲んで騒いだだけで、直ぐにとんぼ返りした。

“Where are you from?”

若い女性に尋ねられた。

“Nippon”雄介は、“Japan”という単語が好きじゃない。

“Nippon?”矢張り、女性には理解出来ないらしい。

“A little island.Around all sea”

“Oh! many many water!”

“But, sea water is salty.Don’t drink”

たどたどしい会話をする。

“But, Nippon is many rainy ・・・

急に彼女は倒れた。こめかみから血が噴き出していた。

雄介は両手を上げた。雄介の感覚では5分以上が過ぎた。

彼女は兵士だった。ライフルを持っていた。だから殺された。

思い切って、右足を踏み出した。その足先に弾丸が突き刺さった。雄介は足を引っ込め、また感覚的には10分程、じっと立っていた。冷や汗が滲むが、乾燥した空気の中、直ぐに蒸発していった。

恐る恐る、弾が向かってきたと思われる方に首を向けた。反応はなかった。足を動かした。今度は大丈夫だった。噴き出していた女性兵士の血は止まり、血溜まりが出来ていた。鮮烈な色の動脈の血液と、どす黒い静脈血が、抽象画の様に見えた。

急いで物陰に隠れた。銃は打ってこなかった。

・・・生きていた。淡々と雄介は思った。

特に、生に固執している訳では無い。逆に、高齢者となって、寝た切りにならなくとも、歩けなくなったり見えなくなるだけでも、生きている価値は無いと思っている。それよりも、死ぬ一瞬前迄、全力で生きていたら後悔しないと思っている。

そういう人生を、今、生きている。

数日後、ある少女の写真を撮った。カメラを向けると満面の笑みを浮かべた。

彼女に映った映像を液晶画面で見せると、ピョンピョン飛び跳ねた。

カメラに興味を持った様だった。

撮り方を手振りで教えた。

雄介を撮ってくれた。

写真を現像したら、送ると伝え、住所を聞いたが、苦笑いして、「おうち、こわれちゃったの」と答えた。

雄介は、少女の撮ってくれた写真を添付し、杏奈に、事務所にメールした。

「今度帰ったら、二人でデートしない?」

と、一言、付け加えて。

完)